スズメバチ
私、スズメバチが嫌いです、怖いです、憎いです!
スズメバチに刺されたら、アナフィラキシーショックと言ふもので死んでしまうかもです。
しかし、大胆な事をしましたよ。
スズメバチジェノサイド
まんつ、最初にスズメバチの巣に大量の殺虫剤をかけておきました。
朝の涼しいうちに、長枝切り鋏で巣を取り外し、破壊し、殺虫剤をかけました。

中にはまだ幼虫、蛹が居るやうですねぇ~
しからば、更なる追い打ちとばかりに、火炎放射

これでもか!これでもか!
(かなり、ひつこい)

ワッハッハ、炭にしてやったぞよ
台風一過
台風一過の今日の昼下がり
木陰の下に入ると涼しさを感じるようになりました。

木陰の下が気持ち良い~
木漏れ日が優しく感じる
異常なまでの暑さも収まり秋の気配が着実に近づいているような気がしております。
こうなれば私の体調の方も回復に向かって行きます。
闇の家業も落ち着きますかな?
どうやら、暑さで各種センサーにも異常をきたしていたのではないかと思っとります。
と言う事は
折角減った体重も元に戻ると言う事ですなぁ。
そうそう、怠けていたWordpressのアップデート完了いたしました。
zashiki
台湾だよ
台湾観光局の人だづが居だったよ
色々な踊りを披露してらったよ

額の「王」ってぇのが、いかにも王様?
台湾観光局主題歌ってぇCDも貰ったったぁよ
これでがんすtaiwan
疲れだったぁよ
台湾と遠野の関係と言えば「伊能嘉矩」
慶応3年(1867年)、横田村(現在の岩手県遠野市東舘町)に生まれる。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。明治18年(1885年)、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経た後、明治26年(1893年)東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学んで、同門の鳥居龍蔵と出会った。明治27年(1893年)12月、鳥居と週一回行う人類学講習会を催した。
明治28年(1895年)、日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に目を付け、台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された(粟野伝之丞との共著)。
明治39年(1906年)帰国後は、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。この間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた。
大正14年(1925年)、台湾滞在中に感染したマラリアが再発するという思いがけない死を迎えた。59歳であった。死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは昭和3年(1928年)『台湾文化志』として刊行された。
何か隠れてる?
我が畑の隣の原野
草ボウボウの中に何か隠れてこちらを窺っているような気配を感じたような???
一瞬ドキッとする
その方向を確認すると

何だか目立つ色をしているぞ
煙突が生えているぞ
機械的だぞ
私、視力があまりよろしくないのでカメラでズーム
見える所を探し、再度ズーム
すると

何だじぇ、トラクターじぇ
トラクターなんかに気配を感じるなんて
峠の宴
ジンギスカンも食ったし
花火遊びもしたし
キャンプファイヤーもやったし
西瓜も食った
そして私は・・・・・
宴たけなわの中、おらほの座敷わらしが「もう寝る~」と、
ジンギスカン食いながらこの峠にまつわる怪談話をしていたため一人で寝れなくなったおらほの座敷ワラシを寝かしつけようと添い寝しているうちに寝てしまった。
早い時間からハイペースで飲んだかな?












